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  行きずりであるはずの…     平成14年 7月

  雨降りしきるある休日、奈良のお寺の仏さまに逢いたくて出かけます。
 崩れかけた築地をたどり急な石段も足早に上り、本堂に入ります。
 暗さになれない目に勢至菩薩さまは、静かに私を迎えます。
 どれだけの時間がたったのでしょうか。充たされた思いで、
 石段を今度はゆっくりと歩いていました。
 後から歩いてこられる女性が、
「私とてもしんどいです。疲れはてました。」
 本堂でご一緒だったこと今初めて気づきます。
 「私でよろしかったらお話ください。」せきを切ったようにお話をされ、
 行きずりであるはずの私たちは一心に対話をします。
 いかほどのときが過ぎたのでしょうか。
 足元の草花を見入っているうちに、その人は消えました。
「どこへいかれたの、私まだお話がありますのよ。
 戦わない争わない人間関係なんて、ほんとうの連帯感は生まれない。
 昨今のぬくもりもつながりもなぜかうすっぺらで。」雨が止んだ。
 心理学者ユングは、人間の無意識層はつながっていて、
 奥深い部分になればなる程まわりの人達と共有している部分が増え、
 これを同時性(シンクロニシティー)と名づけた。
 畢竟「偶然の一致」。
 もっとつながっているのか。
 遠く離れた仲間や、そしてすぐ近くにいる他者とも。
  小林秀雄著「無常という事」の一節があざやかに浮かびあがる。
「とてもかくても候、生死無常の有様を思ふに、なうなうとうたひけり。」
 先程のあの人のはにかんだ泣き笑いの表情がなつかしい。

          秋 田 佳 津



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